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2005年 1月 5日 [ トピックス ]
No.177-1:悲劇の英雄・源義経、富山に息づく伝説をめぐる
●歌舞伎の演目の基ともなった如意の渡
NHKの今年の大河ドラマは「義経」。ここで脚光を浴びる源義経は、平氏追討の一翼を担ったが、その後、兄である源頼朝と対立。京都から北陸道を通り、奥州・平泉へ逃れ、最期を迎えたとされる。悲劇の旅ともいえるその行程により、各地に義経や弁慶にまつわるさまざまな伝説が残されている。富山県内にも義経にまつわる伝説がある。そのいくつかを紹介しよう。
小矢部川の河口、高岡市伏木と新湊市六渡寺を結ぶ「如意の渡(にょいのわたし)」。文治3年(1187)、山伏姿に身をやつした義経一行はこの渡り舟に到着したものの、人相書を見た渡し守に正体を見破られそうになる。そこで弁慶は、勧進帳に見立てた白地の巻紙を一気に読み下す。そして金剛杖で義経の体を容赦なく打ちすえ、渡し守の疑念を解いたという。この話は、歌舞伎十八番の「勧進帳」、謡曲「安宅」の名場面として知られるが、両者では石川県小松の安宅の関が舞台となっている。
時は21世紀、現在の如意の渡には、総トン数5トンほどの小さな船が就航しており、幅約300mの河口を3分ほどで結ぶ。朝から夕方まで約15分間隔で運航し、高校生や会社員らの通学・通勤の足となっている。デッキからは、港に停泊中の外国船や巨大な荷揚げ機械なども眺められ、潮風を浴びながらの束の間の船旅が楽しめる。高岡市伏木側の船着き場横の公園には、義経と弁慶の銅像が建っているので、訪れてみたい。
●義経一行が雨宿りしたことに由来する雨晴海岸など名所がずらり
海越しに3,000m級の立山連峰を望むことができる県内有数の景勝地・雨晴(あまはらし)海岸(高岡市)。この海岸には、義経一行が雨宿りしたという伝説が残されており、「雨晴」という地名の由来にもなっている。義経一行が奥州へ落ちる途中にこの付近にさしかかった。その時、にわか雨が降りだした。急いで弁慶は岩を積み上げて岩穴をこしらえ、一行を雨宿りさせたという。
海岸では、「義経岩」と名付けられた高さ約20mの岩が訪れる者を迎えてくれる(写真下)。岩の頂上には小さな祠が建ち、石像のご神体が安置されている。海岸からは、海上にそびえる女岩と立山連峰の眺望が堪能できる。義経一行もこの景観に心を休めたことだろうか。近くのJR氷見線・雨晴駅では、義経の御利益にあやかり、“雨が晴れる”ことを願って、駅の入場券を記念に求める人も多い。駅観光案内所では、入場券付き「雨晴海岸日ノ出来訪証明書」の発売 (枚数に限りあり)も今年元日から始まった。
南砺市の旧福光町高窪と旧井口村大野には、義経の落胤(らくいん)伝説が伝わる。前者によると、義経一行が高窪集落にさしかかったおり、義経から寵愛を受けている女性が産気づき、男児を出産した。女性は子どもとともにここにとどまり、義経から授かった守り刀を受け継いだとされる。後者の旧井口村大野につたわる話としては、一行が同村に到着し、長者権兵衛宅で宿をとった。この家の娘、お鈴が義経の寵愛を得て、のちに男の子を出産。義丸と名付けられたという。
滑川市高月には、「四十八カンパ」の伝説がある。義経が舟賃代わりに自分の冠を上市川河口の渡しの船頭に渡した。この冠を珍しがった船頭は、高月や領家の村人にかぶらせた。その後、冠をかぶった48人全員が白癬(皮膚病)にかかったという。高貴な人の冠をかぶったので罰が当たったのだろう、と冠は高月の賀茂神社に納められたとされる。
また、弁慶にまつわる伝説としては、高岡市伏木にある気多(けた)神社の社殿の床や柱に弁慶のものとされる足跡やこぶし跡が残されている。朝日町にある脇子八幡宮では、弁慶の足跡とされる石を参道の脇で見ることができる。滑川市高塚には、弁慶が浜で網を曳いたところ、見事な大鯛がたくさん網にかかり漁師たちに感謝されたという弁慶網の話がつたわっている。
各地につたわる義経伝説が事実であったかどうかは別としても、そこには悲劇の武将・義経に対する民衆の判官贔屓があらわれている。義経、弁慶に思いを馳せながら伝説の地を訪れてみたい。
問い合わせ
●高岡市観光物産課
TEL.0766-20-1301
FAX.0766-20-1496
http://www.city.takaoka.toyama.jp/
●雨晴駅観光案内所
TEL.0766-44-0659