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2013年 8月 28日 [ イベント ]
No.621-2:富山の治水に貢献した偉人をクローズアップ、企画展「明治期の治水と高田雪太郎」
●あまり知られていない高田の業績を紹介
3,000m級の山々が平野部に迫る富山県では、山から海へと一気に流れ下る急流河川が多い。河川の改修工事や砂防工事が繰り返し行われてきたことで、今日の県民の安全・安心な暮らしがある。富山県の歴史は、河川との闘い、治水、砂防の歴史といっても過言ではない。富山県は明治16年に石川県から分県を果たし、今年で置県130年を迎えたが、分県の背景には治水事業を急務とした越中と道路修理を主張する加賀・能登との対立があった。このことからもいかに治水の取組みが重要だったかがわかる。
熊本県出身の高田雪太郎(1859~1903)は工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の1つ)を卒業後、内務省に勤務。明治22年、富山県から土木事業の最高責任者として招かれ、29年までの7年間を富山で過ごした。デ・レイケの指導を受けながら、河川改修や架橋の計画立案、監督などを担当。黒部川の愛本橋、神通川の笹津橋の設計なども手掛けるなど、県内の近代土木に大きな足跡を残した。
富山に関係するものも含め、書籍や写真、図面、書簡、日記など多くの史料(総数3,907点)が残されており、置県130年を機に「高田史料」は遺族などから富山県に寄贈された。今回の企画展はこれを記念したもので、熊本時代や工部大学校時代、石川県勤務時代、富山県勤務時代、常願寺川改修などで構成されている。高田の業績をわかりやすくまとめた映像(22分)もあるので、見てほしい。
展示の冒頭で印象的なのが、「庄川水位日表」。庄川での天気、風、水位などを記録したもので、富山県で最も古い河川観測資料だと考えられている。庄川改修工事に向けての調査のためのもので、丁寧な文字に高田の几帳面な性格が感じられる。
●「これは川ではない、滝だ」の真相
高田が在任したころ、県内では水害が頻発し、特に国内有数の急流河川・常願寺川の流域では壊滅的な被害を受け、遠くは北海道などに移住する被災者もいた。明治24年、国から派遣されたデ・レイケは県内各河川を調査。常願寺川や上流部の立山カルデラも視察し、常願寺川の水害の原因は立山カルデラに大量に残る崩壊土砂と荒廃にあることを確認した。水源の荒廃を防ぐため、山林の伐採を禁止して植林や土砂流失を防ぐ砂防工事を行うことや、治水事業として、洪水の原因となる従来の取水口を閉鎖し、1本の大きな用水で取水する合口用水化を図ること、水の疎通をよくするために川幅を広くし、直通で河口まで流れを通す河道修正工事などを提言している。これにより、高田は、用水の合口化、霞堤(二重堤防)、白岩川からの分流を進めていった。
高田はデ・レイケの調査に随行し、多くの記録を残している。企画展では、デ・レイケのアドバイスを記した高田のノートや、同行視察について綴った日記、デ・レイケの名刺、デ・レイケや娘ヤコバ(外国人女性として初めて立山を登山した女性)を撮った写真など貴重な史料が並ぶ。「川ト言ハンヨリハ寧口瀑ト称スルヲ允当トスベシ」と記された高田の文書も展示されている。常願寺川について、「これは川ではない、滝だ」というデ・レイケの有名な言葉があるが、史料として残されておらず、上記の文書から高田が残した言葉ではないかと推察できるという。
企画展では、「作業員7,000人 大規模な改修工事」、「雪太郎が学んだ熊本洋学校」、「ちょっとリッチなデ・レイケのカルデラ視察」、「雪太郎の休日」、「知事奮闘する!」など、トリビア的な話題も紹介されているので読んでみよう。
立山カルデラ砂防博物館では、「明治24年~26年の常願寺川改修工事はヨーロッパの近代技術を取り入れて日本で最初に完成した事業の一つといわれています。一般にあまり知られていない高田雪太郎は、デ・レイケとともに富山県の礎を築いた恩人。高田史料をさらに研究し、明治期の治水・砂防の黎明期の様子を明らかにしていきたい」と話している。
- 問い合わせ
- ●立山カルデラ砂防博物館
TEL.076-481-1160
FAX.076-482-9100
http://www.tatecal.or.jp/